🌼会長あいさつ🌼

日吉台町内会ホームページへようこそ!会長の小野寛子です。

今年は天候の変動激しいですね!皆様にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。

お蔭様で町内会ホームページは開始から2年が経ちホームページ委員のご協力のもと運営して参りましたが、今般町内会に加入の店舗名を新たに掲載させていただくことになりました。

また、商店街入口の横断幕でお気づきのことと思いますが、今年は日吉台小学校創立150周年の節目となり、盛り沢山のイベントが企画されています。こちらについてもホームページでお知らせして行く予定ですので、どうぞご期待ください。

なお、会員の皆様の安心・安全の為の防犯カメラも8台に増え、地域の情報提供や駅前緑化・町内清掃・放置自転車対策など、住みよい町作りを目指して参ります。

今後とも多くの皆様の町内会へのご入会、活動へのご参加を心よりお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

【日吉台町内会】 沿革 等

地名「日吉」の由来

現在の横浜市港北区日吉本町2丁目にある金蔵寺の裏にあった日吉権現に因んで名づけられたといわれている。日吉権現はもともと滋賀県の比叡山にある日吉山王(ひえさんのう)、現在の日枝神社の分霊である。金蔵寺には日吉権現の碑が現存しており、傍らには「日吉山王権言の由来」という石碑があって当時の様子が窺える。東急東横線の日吉駅には「関東の駅百選認定駅」というプレートがあり、その中でも駅名の由来が書かれている。

沿革

江戸時代、後の日吉を構成する駒林村・駒ケ橋村・箕輪村・矢上村・南加瀬村・小倉村・鹿島田村・北加瀬村の各村は武蔵国橘樹郡に属していた。これら母体の各村は、箕輪村を除き東海道川崎宿の助郷村の関係であった。箕輪村は神奈川宿ならびに程ヶ谷宿の助郷村になっていた時期がある。

 

 

1869年(明治2年)、大政奉還後、初の戸籍法が制定された。

 

1872年(明治5年)、大区小区制に伴い母体各村は神奈川県第3大区7小区(箕輪)、第4大区6小区(小倉)・7小区(鹿島田)・8小区(北加瀬)・9小区(駒林・駒ケ橋・矢上・南加瀬)にそれぞれ属することとなった。

また、国民各自の自立を目的とした近代教育の理念=国民皆学に基づく「学制発布」の施行が始まる。

 

1873年(明治6年)、前年の「学制発布」を受けて、初めて日吉村に駒林青林学舎(日吉台小学校の前身)が開校された。〈教師はどこも僧侶出身者がその任にあたっていた。また、開校以前は金蔵寺堂内で寺子屋教育が行われていた〉

 

1878年(明治11年)、郡区町村編制法の制定に伴い、橘樹郡および母体各村が復活。

2ページ目📌

  
1889年(明治22年)、市町村制施行により横浜区が市になる。それに伴う町村合併で、神奈川県橘樹郡のうち、駒林村・駒ケ橋村・箕輪村・矢上村・南加瀬村・小倉村・鹿島田村が合併して、日吉村が成立。大字矢上字下町の矢上橋西詰に村役場を設置し、村内に7大字を置いた。


1898年(明治31年)、伝染病予防法により、衛生に関する事務・費用分担のため、以後衛生組合設立が強制的に促進されるようになった。


1909年(明治42年)12/5、横山武(横綱武蔵山)が日吉村字駒林の農家に生まれる。

 

〈1918年(大正7年)この年より2年間余り、国内にスペイン風邪が流行し、計3回のピークがあった〉


1920年(大正9年)横浜市内衛生組合数181。市衛生組合連合会が設立される。〈会長原富太郎、役員には平沼亮三、浅部利三郎等〉これ以後、補助金配布を事由とする衛生組合の組織化が進む。

 

《1923年(大正12年)関東大震災被災。以後、町内会、青年団等の結成が進む。


1925年(大正14年)、日吉村に、橘樹郡住吉村の大字北加瀬を編入。


*1926年(大正15年;昭和元年)東京横浜電鉄(現東急東横線)開通。日吉駅が開設され、日吉台区域の新規宅地分譲が開始される。


1928年(昭和3年)に横浜市と川崎市からそれぞれ合併の勧誘を受ける。〈日吉村では全村合併を前提に話を進めていたため、なかなか進展しなかった。〉


《日吉村は矢上川を挟んで大きく東部と西部に分かれており、東部4大字(北加瀬・南加瀬・小倉・鹿島田)は二ヶ領用水を通じた稲作を主体としていたため、川崎市域との結び付きが強かった(現在では盆踊りに「川崎踊り」が用いられている)。


これに対し、西部4大字(駒林・駒ケ橋・箕輪・矢上)は桃などの果物生産出荷を通じて横浜市域との結び付きが強く、特に箕輪は日吉村成立までは連合村結成などで綱島や樽、大曽根との結びつきが強かったが、1926年(大正15年;昭和元年)の東横線開通後はその傾向が一層強くなっていた。》

 

*1933年(昭和8年)、東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)が慶應義塾予科を誘致。〈この時、慶応義塾が横浜市より水道を引いたことで、合併問題は深刻化する。八大字で住民投票が行われるが、西部四大字と東部の南加瀬が横浜市合併という結果となったため話はこじれた。

3ページ目📌

一時は村議会一致で全村横浜市合併を決議したが、反対派による実力行使騒動(刀剣による殺傷未遂沙汰等)があり事態は紛糾。村議会はこの決議を白紙撤回した。〉


1934年(昭和9年)、慶應義塾予科・普通部等が日吉に移転・開校された。


1935年(昭和10年)、日吉台尋常高等小学校の校歌が作曲される。


同年5月、日吉出身武蔵山、第33代横綱となる。


同年6月、「日曜報知」221号に新横綱武蔵山関の記事掲載。


同年7月、「婦人俱楽部」7月特大号に「天晴れ新横綱 武蔵山の母子愛涙話」掲載。


同年、慶応が校地整備のために日吉台の古墳発掘に着手するが、中田加賀守子孫からの要請により中止することとなった。

 
≪1936年(昭和11年)、二二六事件勃発(栗原勇の子息、安秀少尉が関与する)≫


*1937年(昭和12年)結局神奈川県知事の裁定により、分村合併が実施される。矢上川以西は横浜市神奈川区に編入され、日吉町・日吉本町・下田町・箕輪町の四町が置かれた。〈矢上川以東は川崎市に編入され、川崎市は五大字(矢上・北加瀬・南加瀬・小倉・鹿島田)を継承した。これに伴い、日吉村日吉尋常高等小学校は川崎市学区域となる〉


➡ 同年、前年から開始されていた綱島街道の道路拡張工事が急ピッチで進められる。


〈〈【当時、警察は日吉全村川崎警察署の管轄であったが、横浜市側を神奈川警察署に分けた。その後1967年(昭和42年)に港北警察署に分署し、川崎市側は1942年(昭和17年)に中原警察署に分署されたが、1974年(昭和49年)に幸警察署に移管している。


だがこれに対し、郵便は中原郵便局のままであった。1960年(昭和35年)横浜市側は新設の港北郵便局に移管された。郵便番号は導入された1968年(昭和43年)から222、更に1971年(昭和46年)の綱島郵便局完成で再移管され、郵便番号も223に変更された。


電話については、それ以前に電電公社に分社されていたためそのままにされた。このため横浜市側の電話も川崎電話に編入され、市外局番は「044」となり、準市外局扱いで同じ横浜市内へも「045」をダイヤルする必要があり、また川崎市域へダイヤルする際も「044」をダイヤルしないと通じなかった。1990年(平成2年)9月30日までこの状態が続いた。

 

~1930年頃(昭和初期)から、日吉はイチジクの名産地で、町内の広い範囲に複数のイチジク農園が存在していた。最盛期の1960年頃(昭和30年代)には春はイチゴ狩り、夏はイチジク狩りの観光地として東京から多くの観光客が訪れる近郊農業地域であった。1970年前後(昭和40年代)以降は急速に都市化が進展し、宅地開発の進行や農家の高齢化などの理由から、1970年代(昭和50年代)頃にはほとんどの農園は廃業し住宅地へと整地されて行った~】〉〉

4ページ目📌

 

1938年(昭和13年)、日吉村周辺一帯に水道が開通する。


同年7月、①(株)日吉ゴルフ俱楽部が設立される。
         ②オリンピック委員会、東京オリンピックの返上を発表する。


同年9月慶応義塾大学、下田の土地19,800坪余の購入決定。


1939年(昭和14年)4月、港北区、戸塚区の2区が新設される。➡1927年(昭和2年)10月の区制施行当時は鶴見、神奈川、中、保土ヶ谷、磯子の5区のみで、各区には庶務、税務、戸籍、会計の4掛のみ設置されていた。


同年5月、①藤原工業大学が慶応義塾日吉キャンパス内に設立される。
         ②横綱武蔵山 引退


同年9月完成予定だった(株)日吉ゴルフ俱楽部のゴルフコースは計画中止となる。


≪1940年(昭和15年)、東京オリンピック中止決定。≫


同年11月、新体制運動に合わせ市の町内会設置規定;施行細則;連合会規約準則等が制定され、500戸以内を単位に、市内全戸が町内会に組織されることとなった。町内会は9部制をとる〈庶務、教化、衛生、警防、軍事、社会、婦人、青年、会計〉

1941年(昭和16年)2月、旧町内会、衛生組合、青年会が一本化され、市内798の町内会が結成され、区常会規定が設けられる。

 

同年4月国民学校制が敷かれる。

 

同年夏、日吉本町に慶応義塾体育会野球部の合宿所が造られる。

 

同年9月 野菜、マッチ、砂糖の切符配給制、味噌、醤油の配給制始まる。

 

≪同年12月8日、太平洋戦争、突如開戦となる。≫

 

1942年〈昭和17年)秋、町内会は6部制に編成替え〈庶務、消費経済、警防、軍事、文化厚生、婦人〉、市内を175消費地区に分け、各地区毎に、配給協議会を設け、会長には原則として町内会連合会長をあてた。


1943年(昭和18年)2月、魚類の登録販売始まる。

 

同年10月、出陣学徒壮行早慶戦を最後に、下田野球グランドは芋畑に変わる。

5ページ目📌


1944年(昭和19年)1月、各区に臨時疎開の指導所設置。


同年3月、日本海軍が、日吉慶応校舎・寄宿舎に駐留を開始する。


≪1945年(昭和20年)8月、敗戦。日吉台小学校周辺一帯は空爆被災し、慶応校舎地下の日本海軍逓信部隊地下壕の朝鮮人捕虜等は全員解放され、地下壕を含む敷地及び慶応校舎等は全てGHQに接収される。


1946年(昭和21年)5月、麻痺していた区政はこの頃わずかに動き出し、町内会、同連合会の整備が始まり、主に連合会長と市職員が中心となり、地方へ供米薪炭出荷懇願、要請交渉に出かけるなど、配給・物価対策が緊急の問題となる。あちこちで、コメよこせ!運動の勃発始まる。


同年10月、憲法制定と共に、地方制度の民主的改革が重要課題となる。GHQ部落会町内会が非民主的管制組織であると指摘。また、農地改革を急速に促進した。


同年11月、424名の町内会長が公職追放される。


1947年(昭和22年)1月、GHQ部落会町内会廃止を指示。これに対し、内務省地方行政担当官は反対の態度を示すも、戦時中の「部落会町内会整備要項」は廃止となる。


同年4月、町内会解散。〈それまで町内会で行っていた配給などの公的事務は一切区で行うこととなった。〉


同年8月、

市内に74箇所の地区事務所を設置。町内会廃止後の配給、更に転出入、広報配布等「対住民窓口事務業務」に各地区事務所は5名程度の職員が充てられた。

区役所機構改革➡六三制実施、警察・消防の地方分権等民主化の波の中で、教育、衛生、民生、統計関係事務等が区役所に集中していく。

 

1949年(昭和24年)1月、前年からGHQは町内会に代わる民主的な住民組織として、広報委員会設置を指導してきた。これを受けて、横浜市では総務局に広報課が新設され、「横浜広報」「市民広報」が逐次発刊され、地区事務所単位に広報委員会の結成が進められた。


〈広報委員会は古い町内会組織に代わるものとして意図されたが、下部組織が整備されていなかったので、県市、その他の役所からの協力事務を行う防犯協力会、防火協力会、自治協力会、日赤奉仕団、農協組合員組織などとして、元の町内会組織が存続していくこととなった。さまざまな住民組織の大小、強弱、名称などは地域によってまちまちの差は見られたが、学校寄付金、各種募金、道路補修、広報配布などの実質的協力組織として機能して行った。〉


同年2月、GHQ神奈川県軍政部民間広報課「広報委員会公式要領」が発表される。

6ページ目📌


*同年(昭和24年)3月1日 日吉町自治会発足 初代会長 柴崎 源造 就任


同年10月1日 GHQより、慶応義塾校舎及び敷地が返還を受ける。


1950年(昭和25年)5月、この年から、日赤募金は春・共同募金は秋と決まる。


同年8月、区役所に民生安定所設置。市民課民生係を市民係に改める。

《1951年(昭和26年)8月、講和条約締結と共に、自治会町内会の結成が再び始まっていく。


1952年(昭和27年)7月、住民登録法施行。以後、この事務処理の包括的末端機関として区役所窓口が定着、登録事務には主として配給、転出入事務を行っていた地区事務所職員を充てた。


同年12月、統制経済の撤廃となる。これにより、地区事務所を廃止する。

 

1953年(昭和28年)10月、第1回「地域自治団体実態調査」を行う。〈自治会町内会等の住民組織数は637団体;市内の78%の世帯を包括、実質加入率67%。〉市は以後、自治会町内会組織の育成に本腰を入れる。


1955年(昭和30年)8月、「弘報よこはま」から「広報よこはま」に改称


同年9月、各区に社会福祉協議会発足。


〈このころまでは、日吉、下田町でホタルが見られた〉


1956年(昭和31年)1月、横浜市広報委員長協議会生まれる。➡『従来自主的に結成した74の地区広報委員会は横の連携がなく、活動がばらばらだったが、この際、区単位に広報委員会を設け、更に市全体で一本の横浜市広報委員長連絡協議会を結成し、広報活動の強化を図る!』との【前年末開催の広報委員長会議での決議を受けたもの。

 

同年4月、「広報よこはま」の町内会を通じての全戸配布が始まる。


《同年12月、市全体の広報委員長会議を開催。➡広報委員会のあり方について討議し、「広報委員会の機能を連合町内会に移行することが望ましい」とした。このとき市内の自治会町内会組織は一応完成し、従前の地区事務所単位に連合町内会の結成がはじまっていた。横浜市ではそれ以前から連合町内会の育成を考えていたが、【直接の動機は「広報よこはま」の全戸配布であった。】

7ページ目📌


*1957年(昭和32年)日吉台町内会発足 同年4月1日 初代会長 天野 修一 就任

 

〈日吉町自治会区域内に於いて、日吉駅を中心におよそ半径300m以内の同心円部分➡日吉1丁目2番地の一部(崖の上側部分)と日吉4丁目3番地の一部(日吉駅方向側のおよそ半分)、及び 日吉2丁目1番地~12番地一帯をエリアとする範囲(商店を多く含む住宅街およそ500戸単位)が、新たに「日吉台町内会」として発足した。〉


同年、下田町に日本住宅公団日吉団地「下田公団住宅(現サンヴァリエ)」が完成する。


(( 同年8月、

①第3回「自治会町内会実態調査」を行う。〈この時の市内自治会町内会数904団体。市内世帯の98.5%が加入。設立動機としては、防火防犯、住民の福利厚生、相互親睦のためというのが圧倒的であった。その総予算の18.4%が防火、防犯、社会事業などの寄付金、15.1%が防犯灯街路灯維持、14.4%が共同募金などの募金で占められている〉


②区長会は各区ごとに連合町内会の連絡会を作り、市民と役所との協力体制を強化していこうとの意見を打ち出す ))

 

 

*1958年(昭和33年)3月31日 日吉台町内会 初代会長 天野 修一 退任


            同年  4月1日 日吉台町内会 第2代会長 荒江 三郎 就任


*1959年(昭和34年)3月31日 日吉台町内会 第2代会長 荒江 三郎 退任


        同年  4月1日 日吉台町内会 第3代会長 天野 十郎 就任


((同年12月、各区広報委員会連絡協議会の会長会議を開催。「翌年、35年3月末までに、広報委員会の機能を連合町内会に移し、広報委員会を発展的に解消する」ことが決議された。それにもとずき、各区で討議がすすめられた。単位自治会町内会の上部組織である連合町内会を中心とした地域行政組織の整備が新たな段階に至って、「緊急な問題」として浮上してくる。

 

1960年(昭和35年)4月、全市で76か所の広報委員会が廃止され、連合町内会へ吸収される。このとき広報委員会の機能を吸収する連合町内会数は67団体で、全市の自治会町内会1024団体の過半数634団体が加入していた。このあと、加入団体は急速に増えていく。


同年5月、区役所機構改革実施。占領体制下を過ぎ、大都市化問題のなかで区住民組織をとおして、区は新たに市民課を新設し、市民係と地域振興係の2係を置いて整備した。


また、この年、元東京園のボイラーマン時代、かつて日吉、箕輪町、綱島、大倉山等の近隣地域の各神社大礼祭等の「のど自慢大会」等で、毎回優勝を総なめして行った、三橋美智也(歌手)が、地域への恩返しとして、綱島小学校の体育館建設募金に協力する))


1961年、横浜銀行日吉支店が開設される。

8ページ目📌

同年、慶応義塾大学日吉キャンパスが撮影舞台となった映画「あいつと私」が公開される。


同年、東海道新幹線施設の用地買収が行われる。


同年、公団南日吉団地(現コンフォール南日吉)完成する。


1962年(昭和37年)下田小学校新設。〈この新設学区域に該当の児童は日吉台小より一部 新設下田小へ転校する。〉


同年、日本住宅公団日吉団地「下田公団住宅」に自治会が結成される。


〈 このころより、高度経済成長期が加速していく。〉

*1964年(昭和39年)3月31日 日吉台町内会 第3代会長 天野 十郎 退任


           4月1日 日吉台町内会 第4代会長 斉藤 啓一 就任


(同年、東海道新幹線開通、東京オリンピック開催)

 

1967年(昭和42年)箕輪池が売却され、埋立地となる。

 

(1968年(昭和43年)都市計画法施行に伴い、農家は都市型農業への変革を迫られる。)

 

1969年(昭和44年)3月、横山武(元横綱 武蔵山)逝去


(( 同年10月、港北区分区により緑区誕生(1966年、田園都市線開通に伴う人口増のため)))

 

1970年(昭和45年)区内で住居表示始まる〈日吉は1977年~、日吉本町は1987年~〉

 

1971年(昭和46年)慶応体育会野球部合宿所が日吉本町から下田町へ移転建替される。

 

同年、下田町在住、の俳人秋元不死男氏、第20回横浜文化賞を受賞する。

 

(1974年(昭和49年)このころ、区役所と老人クラブ連合会が「古老を囲んで港北を語る座談会」を開催する)

 

1975年(昭和50年)慶応大学内にあった地下壕の二基の竪坑が撤去される。

 

1976年(昭和51年)日吉台小学校で、区内初の「校舎の屋上にあるプール」完成する。

 

1977年(昭和52年)4月、日吉台西中学校が開校する。


同年、サンテラス日吉(後にアピタ日吉店)が開業する。

 

1978年(昭和53年)9月、港北公会堂が落成。〈人間国宝芹沢銈介氏、下田町の田邊泰孝の依頼により、緞帳の下絵「陽に萌ゆる丘」を描く〉


(( 同年11月、菊名から大倉山に移転した港北区役所新総合庁舎が落成。

9ページ目📌

1979年(昭和54年}「広報よこはま港北版」に「町名の由来」が連載。(1月号~12月号)


1980年(昭和55年)1月、「広報よこはま港北版」に「区内の名所・旧跡」(後に区内散歩)が連載開始された。〈1990年11月号まで続く〉))


同年7月、情報誌「とうよこ沿線」が創刊される〈日吉サンロード内に編集室を置き、2000年7月の74号まで続く〉


同年7月25日、故秋元不死男3度目の祥月命日に門下有志等、真福寺境内に師の句碑を建立する。


(同年8月27日、区役所旧庁舎を利用して、港北図書館がオープンする)


同年、日吉本町の辻村功氏、東急電鉄唱歌を作詞。(2005年に改訂)


(( 1981年(昭和56年)3月、大倉山精神文化研究所、本館(現大倉山記念館)等の建物を市へ寄贈し、敷地を横浜市に売却する。


同年、「MM21(よこはま21世紀プラン)」で、「区別計画の章、港北区」として「大倉山プロムナード」が登場する ))

*1982年(昭和57年)3月16日  日吉台町内会 第4代会長 斉藤 啓一 退任


      同 年、 5月15日  日吉台町内会 第5代会長 鴇沢 武徳 就任

(( 1983年(昭和58年)「広報よこはま港北版」で「我が子に残したい昔話」連載(1~9月)


同年、東急電鉄が大倉山の梅林を横浜市へ売却する


1985年(昭和60年)市営地下鉄ブルーラインが新横浜駅まで開通(1993年あざみ野まで延伸)〈このころより、新横浜はビジネス街へと大きく進展を開始する〉))


1987年(昭和62年)8月22~23両日、日吉台小学校で、地元郷土史愛好家有志による「私たちの町、日吉今むかし」展が展示開催される


1989年〈平成元年)3月、慶応高校教諭寺田貞治等、日吉台地下壕保存の会を立ち上げる
「日吉台地下壕保存の会会報」を創刊する


(同年、区制50周年記念誌「港北50&TODAY」が刊行される )


1992年〈平成4年)、下田小学校の円形校舎が取り壊される


(( 同年、市営地下鉄ブルーラインの新横浜北駅(現北新横浜)と新羽駅が開業する

10ページ目📌

〈 新羽の宅地化が始まる〉


1994年(平成6年)港北区と緑区の再編により、都築区と青葉区が誕生する〈港北ニュータウン開発を受けた2度目の分区〉))


同年、下田町の日吉団地の建替えが完成し、サンヴァリエ日吉と改称する。


((1995年(平成7年)第三京浜都築インター完成。宮内新横浜線道路新羽駅以南開通。


1996年(平成8年)災害用応急井戸の制度開始となる ))


*1999年(平成11年)4月15日  日吉台町内会 第5代会長 鴇沢 武徳 退任


      同 年、 4月15日  日吉台町内会 第6代会長 小幡 光男 就任

同年、日吉”松の川緑道 ”が完成する(当時、薄井連合町会長等の尽力による)


(2000年(平成12年)区政60周年記念「港北ウオーキングガイドてくてく歩こう」刊行 )

 

日吉台町内会 第6代会長 小幡 光男 退任
 

(2001年、市営地下鉄 4号線(中山~日吉間)着工開始


同年、日吉台地下壕内へ慶応義塾大学校内から直接入れるようになる

 

日吉台町内会 第7代会長 田村 吉章 就任

(( 2002年8月、あごひげアザラシ「タマちゃん」、鶴見川に現る


2003年(平成15年)、港北郷土史会が設立され、「港北の歴史散策」が刊行される


同年末、区内の井戸154か所が災害用応急井戸に指定される


2004年(平成16年)、横浜開港資料館で「リバーサイドヒストリー鶴見川―幕末から昭和初期まで―」が展示される(~2005年1月末まで)   ))

*2004 年(平成16年)9月の町内会定例会で防犯パトロール隊結成が決定。同年9月13日、第1回目パトロール実施。その後月に1、2回のペースで続行。
《発足時の提案内容;犯罪の抑止効果。パトロール隊の心得 1.負担にならない 2.長続きさせる 3.興味を持つ 4.防犯ブザーを持つ 5.優しく注意する 6.編成は5人一組位で良い 7.町の中(構造、施設など)を見る 8.挨拶励行の習慣をつける》

11ページ目📌


*2005年(平成17年)7月12日、インドネシア国際警察が視察の為、日吉町連合会で、インドネシヤ警察の方3名、通訳の方等参加による防犯パトロールを実施。《慶応大学の並木通り集合にて》


同年、区内の公園管理が、北部公園緑地事務所から港北土木事務所へ移管される

2006年(平成18年)1月10日、防犯の日に合わせ、日吉の町会が合同で小学生の下校時に合わせてパトロールする。(日吉台小学校の下校時の12時10分~30分頃、日吉台町内会は北門から帰る児童の見守りパトロールをする)

(( 同年、「港北歴史地名ガイドマップ」刊行される


同年夏、「菊名問題」により、東急が女性専用車両の位置を変更する ))


〈〈※21世紀初頭、2001(平成13)のこのころ、日本では1991(平成3)に始まったバブル崩壊;構造不況;山一証券・北海道拓殖銀行等に代表される企業倒産、破綻の連鎖、銀行の貸し渋り;不況時に政治改革、省庁再編構造改革等を実行した政権の失策等のあおりを受け、不況の波が徐々に国中に波及し、2006(平成18)には、全国的な治安の悪化が問題視されるようになり、「空き巣狙い;ピッキング、サムターンまわし;ひったくり等」の事件多発が問題視された。その発生件数は全国でも神奈川県はワースト5に入り、その中でも、横浜市が県内のワースト5に入り、港北区は横浜市内中のワースト5入りし、その中でも日吉は菊名、綱島に次ぐ治安の悪さとなっていた〉〉


2007年(平成19年)3月14日、田村会長(当時)より、防犯パトロール隊へ アパート、マンション等の高層階への空き巣被害続出、注意喚起連絡があり、掲示板にもその旨が掲示される。(防犯パトロール隊は新築のマンションの裏手に出来た新しい通りもチェックした)


同年4月26日(木)夜間のパトロール実施。(新規購入の赤色警棒ライト使用;途中駅前交番に寄ったが留守)


*同年8月29日、「来客時の玄関ドアの開錠の際2度、3度の相手確認を怠らないようにしましょう」を呼びかけのポイントにして防犯パトロールを実施。途中自転車で転倒して足にケガ(流血)をしている少年に応急手当をしたり、駐車場にたむろしている少年達(奇声をあげたり少し危険な感じでした)に注意するなど、いつもより緊張する場面の多いパトロールとなる。〈9月に入ると人の出入りが変るため、ゴミ出しのルール等チェックしなおさなくてはならない等、ゴミの収集所なども見て回る〉

( 同年、市民グループ、鶴見川舟運復活プロジェクトが結成される )

12ページ目📌

2008年(平成20年)3月30日、市営地下鉄4号線グリーンライン開通。日吉、日吉本町駅等開業


同年春、慶応高校硬式野球部が第80回選抜高校野球大会に出場する


同年6月、日吉駅に東急目黒線が乗り入れる(東京メトロ南北線、三田線ともつながる)


同年夏、慶応高校硬式野球部が第90回全国高校野球選手権記念大会に出場する


同年11月8日、慶応義塾大学創立150周年式典が日吉キャンパス陸上競技場で開催される


同年、慶応義塾体育会野球部下田町合宿所が建て替えられる


( 2009年(平成21年)4月1日、港北区誕生70周年。同年9月27日、区制70周年記念式典が港北公会堂で行われ、記念誌「港北の境域と記憶」が配布される。また、同年末には、「港北区地域わかりマス」が作成される )

*2010年(平成22年)12月17日  日吉台町内会 第7代会長 田村 吉章 退任


      同 年、 12月17日  日吉台町内会 第8代会長 小野 寛子 就任


( 同年、港北図書館開館30周年を記念して、友の会発足。「暮らし・お仕事コーナー」が設置される。また、篠原町城山で郭の一部、堅堀、土器等出土し、篠原城址と確認され、市の「横浜みどりアップ計画」の一つとして、0.65haの篠原城址緑地一帯を買い取る )


2011年(平成23年)2月20日、鶴見川流域総合治水対策30周年記念シンポジウムが慶応大学日吉キャンパスで開催される。


≪同年3月11日、14:46、東日本大震災発生。小机で液状化、鶴見川で津波の遡上現象、日吉台を含む関東一帯で大停電発生、公共交通機関の麻痺、帰宅困難者続出、綱島街道等の各所道路の大渋滞、新羽西芳寺観音像破損、東京九段会館の天井崩落、浦安液状化、関東各地でブロック塀倒壊等々、各地で被害多数発生(停電は以後計画停電として長引く、また、懐中電灯、乾電池、ガソリン、各種食料品、生活必需品等の品切れ、供給不足等も数カ月にわたり長引く。(また、岸根公園内の県立武道館に、被災者の一時避難所が4月28日まで設けられる)≫


同年7月、「箕輪のあゆみ」の著者、小嶋英佑氏逝去。


同年、下田町の田邊泰孝氏、自伝「陰徳積めば陽報あり」を刊行。


(( 2012年(平成24年)5月21日、173年ぶりの金環日食があり、その中心線が区内を通る。また、同年8月、『伝えたい 街が燃えた日々を‐戦時下横浜市域の生活と空襲‐』刊行 ))


2013年(平成25年)3月16日、東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転開始

13ページ目📌

同年、日吉台地下壕の出入り口の一つが住宅開発により破壊される


同年、鷹羽狩行、「日吉閑話」を出版する


同年、慶応義塾体育会野球部の野球場が人工芝に張り替えられる


2014年(平成26年)3月、「慶応義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究」刊行


同年11月、日吉の森庭園美術館(下田町の彫刻家、田辺光彰氏設立)がオープンする

 

( 同年末、「港北区土砂災害ハザードマップ」が作成される


2015年(平成27年)3月「横浜市都市計画マスタープラン 港北プラン」発表される )


同年3月末、下田町の彫刻家、田辺光彰氏逝去


同年7月、地域インターネット新聞「横浜日吉新聞」が発信開始。


同年11月、アピタ日吉店閉店となる


(( 2016年(平成28年)末、パシフィコ横浜でお城EXPO2016開催、小机城と篠原城が紹介展示された。また、同年、鶴見川舟運復活プロジェクトが『鶴見川の舟運文化と夢見る仲間たち』を刊行 ))


2017年(平成29年)春、4月、5月の各3日間、2回にわたって、「港北オープンガーデン」が開催される


2019年(令和元年)春、日吉のいちご園が下田町4丁目付近だったと判明(高田西の加藤薫夫氏よりの聞き取り)


( 同年、港北区区制80周年を記念して大倉山にハナミズキを植樹する )


同年、日吉のちゃんこ料理店大田山が閉店する


〈2020年(令和2年)3月、コロナ禍により東京オリンピック、パラリンピック開催が翌年に延期となる〉


同年4月、アピタ日吉店跡地に横浜市立の小学校が開校する


2021年(令和3年)4月末、日吉台町内会ホームページが運用開始となる


(同年5月、世界トライアスロン大会が山下公園にて開催される)


同年7月、日吉台町内会定例会に於いて、改めて当町内会の正式名称は「日吉台町町内会」ではなく、『日吉台町内会』であるとして、名称統一に賛同意見多数であることが確認される


同年7月上旬、英国オリンピック代表チームの事前キャンプが慶応大学で実施される

14ページ目📌

〈同年7月、東京2020オリンピック開催〉

 

同年8月、東急新線(相鉄線乗り入れ)の脆弱地盤下の難工事、日吉~新綱島~新横浜間での地下トンネル掘削 開通工事が完成する


同年8月22日、横浜市長選挙が行われ、日吉地区センターが投票所となる

 

〈同年8月末、東京2020パラリンピック開催〉

 

同年9月22日、慶応大学内協生館が、主に若年者向けコロナワクチン接種大規模会場となる。また、この協生館内に新たに地域の「図書取次サービス拠点」が港北図書館に次いで設置された。


〈〈*前年2020年(令和2年)の初頭より始まった世界的コロナ禍(コロナパンデミック)の影響を受け、日本では東京、大阪をはじめ、全国各地の都道府県別に度重なる、緊急事態宣言、蔓延防止措置等をうけて、飛沫感染・人流増加・過密状態防止の観点から、各種イベント開催の自粛、百貨店、飲食業等の自粛営業・一時的閉店等の措置等がとられた。日吉台町内会に於いても、健康測定会(保健推進委員主導)、健民祭(スポーツ推進委員主導)、8月度の防犯パトロール等は中止され、飲食業各店の自粛営業・一時的閉店等が相次ぎ、更に、日吉神社祭礼は、前年に続く2回目の中止を余儀なくされている 〉〉

 


*以降の【沿革】については、日吉台町内会ホームページを参照のこと

 

なお、近未来においては


2022年末~2023年、相鉄・東急直通線開通予定;綱島に港北区民文化センター開館予定

 

2040年、港北区の人口が増加のピークを迎える予定
                          2021年10月吉日

参考資料

  • 日吉誌考 編者 佐相政雄
  • 港北区史 編集発行 港北区郷土史編纂刊行委員会 
  • 横浜区政年表 行政研究者佐藤雅亮 著「横浜市における区制の歴史」
  • 港北区地域振興課 渡邉氏よりのデータ
  • 横浜市港北区域年表 平井誠二・林宏美 共著 わがまち[港北3]
  • 日吉台町内会ホームページ(ブログ欄他) 同HP委員会 運営 

かつて、聞き取り実施の古老の方々

  • 相澤繁氏(日吉堂薬局初代店主)
  • 高橋菊三郎氏(日吉本町)
  • 大島よし氏(日吉町)
  • 大島明氏・故大島ツネ子氏(日吉町)

*【補足資料】

町名の変遷

日吉村を合併した際、矢上・駒林・駒ケ橋・箕輪・南加瀬の5大字を廃して、日吉町(大字矢上及び南加瀬)・日吉本町(大字駒林)・下田町(大字駒ケ橋)・箕輪町(大字箕輪)の四町を置いた。


日吉町は日吉村に由来した町名であるが、日吉本町はその「日吉」の名のルーツである金蔵寺が所在するため「本町」を名乗った。下田町は駒ケ橋に存在した下田地蔵尊(曹洞宗真福寺)に由来。箕輪町は大字箕輪(「箕輪」の由来は諸説あり、現在も明確になっていない)に由来する。


1977年(昭和52年)から1989年(平成元年)にかけて住居表示が実施され、4町の代わりに日吉一 - 七丁目、日吉本町一 - 六丁目、下田町一 - 六丁目、箕輪町一 - 三丁目の計22町が設置された。

日吉

  • 日吉一丁目 - 日吉町字谷戸(俗に「常盤台」)の全域および字耕地の一部
  • 日吉二丁目 - 日吉町字上ノ町(俗に「台」)・耕地・仲ノ谷・一本松・根搦の各一部
  • 日吉三丁目 - 日吉町字仲ノ町の全域および上ノ町・仲ノ谷・大門・下ノ町・三軒家の各一部・
  • 日吉四丁目 - 日吉町字中ノ原・上ノ原の全域および仲ノ谷・一本松・大門・下ノ町・宮前・宮ノ台・欠山の各一部
  • 日吉五丁目 - 日吉町字三軒家・宮前・宮ノ台・欠山耕地(俗に「宮前西町」)・欠山・越路(南加瀬)の各一部
  • 日吉六丁目 - 日吉町字袋河岸(俗に「袋」)・窪新田(または久保新田)・榎戸・新田(南加瀬)・新川向(元鶴見区駒岡町)の各一部
  • 日吉七丁目 - 日吉町字袋河岸・窪新田(または久保新田)・欠山耕地・欠山の各一部

日吉本町

  • 日吉本町一丁目 - 日吉本町字北原・東原・清水の全域
  • 日吉本町二丁目 - 日吉本町字中原・堂中の全域および字東根・中村前・鯛ケ崎の各一部
  • 日吉本町三丁目 - 日吉本町字殿袋の全域および字内田・中橋・前耕地・鯛ケ崎の各一部
  • 日吉本町四丁目 - 日吉本町字船橋・沖野・居家操の全域および内田・中橋・前耕地の各一部
  • 日吉本町五丁目 - 日吉本町字池ノ下・檜入の全域および字鯛ケ崎・大谷戸の各一部
  • 日吉本町六丁目 - 日吉本町字西根・西原の全域および字中村前・東根・大谷戸の各一部

下田町

  • 下田町一丁目 - 下田町字大下・中町・一本松の各一部
  • 下田町二丁目 - 下田町字大下・北原・中町の各一部
  • 下田町三丁目 - 下田町字中駒の全域および字北原・杉並・西ノ前の各一部
  • 下田町四丁目 - 下田町字一本松・杉並・西ノ前・南原の各一部
  • 下田町五丁目 - 下田町字南原・カサの各一部
  • 下田町六丁目 - 下田町字屋ケ増(八ケ舛とも。俗に「下田上町」)の全域および字カサの一部

箕輪町

  • 箕輪町一丁目 - 箕輪町字諏訪下((梅ケ枝)谷戸・上形・向方)の一部
  • 箕輪町二丁目 - 箕輪町字樋下の全域および舟下の一部
  • 箕輪町三丁目 - 箕輪町字諏訪下(根方・(夕日山)洞谷)・舟下(竹ノ花)の各一部

 

小字は原則として日吉村時代のものが横浜市編入時にそのまま引き継がれたが、この小字は1889年(明治22年)に確定したものであり、それ以前から通用していた小名とは多少異なる。特に箕輪町字諏訪下は大きく集約されていた。

 

また、横浜市編入後、南綱島町・北綱島町・高田町・鶴見区駒岡町・川崎市と幾度か境界変更を行っており、その都度小字も変動し統合されている。


この他、小字と通称が異なる箇所があるのは、おおむね小字が成立した以降に集落単位で成立した「組」の呼称が承継されたものである。

 

ちなみに、当日吉台町内会は、日吉1丁目2番地の一部と日吉4丁目3番地の一部、及び 日吉2丁目1番地~12番地一帯を範囲とするエリアである。


以上



日吉台町内会ホームページは、会員皆様への情報提供を目的とし、維持・管理は

「日吉台町内会ホームページ委員会」が担当します。


https://hiyoshidai-yokohama.jimdofree.com/