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「日吉の歴史」のお話・・・その続き① ”日吉の近所が歴史上登場したのは、いつ頃のなんていう書物・・・?”

「日吉の歴史」のお話・・・その続き①


”日吉の近所が歴史上登場したのは、いつ頃のなんていう書物・・・?”

 私の調べたところで、地元日吉の郷土史家;故佐相政雄さん(佐相写真店店主)からのこの質問のほぼ正解と思われるところを記します。
1987年(s62)秋、故佐相さんに「私たちの町、日吉今むかし」展成功のお礼にお伺いした折、氏の自著「日吉誌考」をご紹介頂き、早速購入。深い紺色の上質和紙表紙で、背は太い凧糸で括られている、趣のある装丁の一冊でした。その中で、「日吉の発達は鎌倉時代始まったといってもよい。」との記述がヒントとなりました。

武家社会の成立とともに、平安時代末期;治承4年(1180)から文永3年(1266)まで、初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王までの鎌倉幕府の足跡を記録した日本の歴史書「吾妻鏡」には大要、次のような記録が残っています。

~仁治2年(1241)、当時の多摩川流域の溝の口デルタ地帯の潟(度重なる河川氾濫等の堆積土砂の湿地帯)を開墾して農耕地にするために、近隣の農民たち地頭の命令で動員されて溝を掘り、潟の残水を海に流し去り堀を通して多摩川の水を引いて、沼や芦萩の繁茂する荒地を見事な水田にした。こうして出来上がった新田を【箕輪郷の豪族箕匂太郎】に与えた。箕匂太郎の父右近太夫政高が20年前の承久の役で抜群の手柄を立てて恩賞を受けるはずであったが、適当な土地がなく延び延びになっていたのが箕輪につつ”く台地下の新田を与えられた~

この当時、武蔵の国橘樹(たちばな)郡箕輪郷と表され、昭和40年頃の古老の話によれば当時をしのぶ字(あざ)の呼び名”樋の下”などが現在の日大高校付近に残っているとのことです。また、現在の日吉台町町内会の近所の箕輪町町内会にも
そのまま【箕輪】の呼び名が残っています。

さて、この当時、三尺⇔約1m以上深く地面を掘り起こすことは「犯土」といって地の神の怒りに触れる禁止事項で「長い溝を掘るのは技術的にも精神的にも大困難」の様相を呈していましたが、この大灌漑工事が見事成功すれば、北条氏の権力が確立するという重大問題を孕んでいたとのことです。
鎌倉幕府は頼朝死去の後、徐々に執権職の北条氏に政権を握られ、頼朝以来の重臣たちは相次いで抹殺され、横浜市や私たち港北区にゆかりのある畠山氏・稲毛氏などの武家一門が消えていきました。また、上記多摩川大工事の34年前、承元元年(1207)3月20日、御家人の窮乏、所領消失などの経済的打開策として、北条義時はすでに武蔵野の開発を地頭に命じています。さらに上記多摩川大工事の2年前、延応元年(1239)2月14日、北条泰時は佐々木泰綱に鳥山川、鶴見川沿いの「武蔵の国小机郷鳥山等」の湿地帯平地の新田開発を命じています。多摩川大工事の成功を睨んだ、前哨戦の意味があったのかもしれませんね。

(参考資料;「日吉誌考」佐相政雄 編 /「港北区史」港北区郷土史編纂刊行委員会 編集 発行)

今回はここまでとして、次回も、また少し「日吉の歴史」を探求して行こうと思っております。
                  スマイル日吉 大島



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