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「日吉の歴史」のお話・・・その続き【番外編】”天皇家の先祖は朝鮮半島からの渡来人だった・・・?!”

 1987年(s62)夏、地元日吉の郷土史家;故佐相政雄さん(佐相写真店店主)のお宅に、ある江戸時代の古文書の見方、読み方、記載内容など教わりにお伺いしたことがあった。当時、お店二階のお部屋に通され、そこは、いわば氏の書斎兼研究室のようになっており、地元日吉から出土した貴重な土器の破片や貝塚の出土品、古文書等の数々が大切に保管されていた。
 私はその素晴らしさに圧倒された。氏は優しく、「まあ、そうかしこまらなくてもいいよ。膝を崩して、あぐらをかきなさいよ。」と、にこにこ笑みを浮かべながら、2時間以上もかけて、7行ほどのその古文書の読み方の初歩を教えて下さった。
 私がやっと、文面の一応の内容が理解できた時、氏が語り始めた。
「君、実はね・・・、あたしがこういう郷土史というか、歴史に興味をもちはじめたのは、戦前の旧制中学校時代でね・・・、君、あたしの顔どう思う・・・?」
いきなりの質問に私はキョトン?となった。「まあ、いいや。あたしの顔、普通の人より鼻が大きいだろう・・・?この鼻のことでね・・・、中学の仲間たちみんなから、いじめられまではしないんだけど・・・、よーく、からかわれたもんなんだ・・・、”佐相、お前のそのでかい鼻、お前の顔は朝鮮人みたいだな!朝鮮人、朝鮮人!!”ってね。でっ、ある時、ふと、【よおし、それじゃあ、いっそのこと、自分の先祖のことを本気で調べてみるか!】と思い立って、調べてみるといろんな事がどんどんわかってきて、面白くなって、いつの間にかのめり込んじまったのさ。ちなみに、佐相家の祖先は奈良時代からこの地に住み着いているんだ。もっと調べていくうちに、ビックリする事実もわかったんだよ!!あの、皇室・・・、つまり天皇のご一族も、もともと先祖は朝鮮からの渡来人だったのさ!」
(その時・・・私は驚きのあまり、目がまんまるになったのを覚えています。)

天皇家、及び日本人のルーツについては、さまざまな学者の諸説があります。
以下は、なかでも重要な資料になると思っています。
2002年の日韓ワールドカップを前にして、現上皇(当時平成天皇)陛下は次のように発言されています(朝日新聞 2001年12月23日より)。
《日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が日本の人々の熱意と、韓国の人々の友好的態度によって、日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王(せいめいおう)は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは、忘れてはならないと思います。
ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております》



*今回の「日吉の歴史」のお話・・・その続き は【番外編】でしたが、次回は
本来の「日吉の歴史」のお話・・・その続き②を投稿していこうと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。  スマイル日吉 大島



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