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日吉の歴史のお話 その続き④ 村民は教育熱心だった!?

「日吉の歴史のお話し」…その続き④ “村民は教育熱心だった!?”

 

 当町内会HPで、「商店街入口の横断幕でお気づきのことと思いますが、今年は日吉台小学校創立150周年の節目となり、盛り沢山のイベントが企画されています。こちらについてもホームページでお知らせして行く予定ですので、どうぞご期待ください。」と小野会長の皆様へのご挨拶のとおり、私の母校でもある【日吉台小学校は今年『創立150周年』】を迎えます。今回はその当時あたりの歴史を探ってみます。

 

明治5年(1872)の学制発布を受けて、翌年明治6年(1873)他の村々に先駆けて、当時の我が日吉(橘樹郡字駒林村)に、清林(駒林)学舎(日吉台小の前身)が開校しました。明治7年(1874)の文部省第二年報によれば、『主者(経営者?)島村四郎兵衛、男性教員2名、生徒は男子65名、女子50名、授業料37銭/1ケ月毎、扶助金配当高1円83銭8厘』との記録があります。

 

日吉の郷土史研究家・故佐相政雄氏編「日吉誌考」を紐解くと、

 ~ 明治5年頃には金蔵寺で寺子屋を開いていたが、記録がなくその以前のことはつまびらかでない。学制施行当時の隣接各村学舎もその大部分が寺院の堂宇を仮校舎にして授業を行っていた。また、教師のほとんどが僧侶である。日吉町保福寺先代住職高橋亮紋氏も日吉台小学校の教師であった。清林(駒林)学舎元赤門坂下にあり藁ぶき屋根にして庭広く、この校舎の基礎石は鎌倉石で(現在からおよそ90数年前)、駒林、矢上各村の村民が労力を提供し鎌倉より牛車により運び込んだもので、赤門の先代横山氏(故横綱武蔵山?)や日吉町在住田辺源左衛門氏等が十五、六歳の頃、大勢の人々が心を込めて鎌倉よりはるばる運んだものである。

その後現在地に校舎が移転するに及び坂上まで運搬し、再度基礎として使用した。その時再度にわたって建築を担当した棟梁を星野巳之助と言い(仕事一途に生きる名人肌と言われた)この人宮前の天野松之助氏の弟で星野家の養子に入る。当主星野正幸氏はそれにより三代目となる。

 日吉が横浜市に編入後(*当町内会HP沿革参照)、校舎新築となりこの基礎石も不用となる。当時学務委員長板垣権兵衛氏時代に日吉町栗原隆三氏に払い下げられる。そして現在も日吉町にあり、石の長さ三尺幅一尺厚み八寸その数およそ五十なり。 ~  との記述があります。

 

さて、大政奉還・明治維新からわずか5年足らずの発布となるこの学制は、新しい国づくりを担う、【 国民各自の自立を目的とした近代教育の理念[人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌(さかん)ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ智ヲ開キ才芸ヲ長スルナリ] 】と、加えて【 男女の区別なく全国民皆学[ムラニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヲ期スル] 】に基づくものでした。

 新政府の学制の計画では、全国を8大学区とし、1大学区に32中学区、1中学区に200小学区を設置して、1小学区に小学校1校をつくるというもので、この計算でいくと全国51,200小学校となるはずが、実際には、「文部省第一年報(明治6年)」によると、全国の公立小学校7,995校+私立小学校4,563校=合計12,558校と、計画には到底及ばない設置数でした。さらに就学率を見ても、男子39,9% 女子15,1% 全体では28,1%でした。いかに当時の各家庭が児童を就学させることが困難であったかが見て取れます。                                  

またこの学制による各学校が負担すべき学校経費は

一、教師ノ歳俸 或ハ其居宅家賃 一、学区取締給料 一、学校僕役入費 一、学校造営及修理ノ入費或ハ人家借テ学校トスル時ハ其借賃 一、学校諸器械教授器械或ハ修復 一、学校ニ用ル薪炭油筆紙墨ノ費 一、試業ノ入用 一、体術器械ノ入用

などでした。

国の補助金の少ない中で、これらの費用をどうやって村で負担していくのかが大問題、児童たちの納入する授業料では到底賄いきれず、不足は村費を充当していました。

開校当時、学舎の授業料は新政府では一人一か月50銭、また、それを納められない者に対しては25銭と定めていましたが、到底このような支払いは無理というものでした。

 

ところが、【明治8年(1875)には全国公立私立小学校の合計は24.225校となりました。(「文部省第三年報」)】村々は苦肉の策として「学校資本金制度」なるものを考案、全国に急速に普及しました。[この制度はあらかじめ年間の学校経営経費を算出し、各村民の持ち高により一定の基準をもうけ、各村民が一定の金額を借り入れしたこととして、その利子(1年で1割)を醸出して、学校経費を賄うというもの]しかも当時、これら公立小学校の学舎は、ほとんどが寺院・民家の借用であり、教師も多くの小学校は1人でした。

これらのことを考えると、政府の奨励、援助金の増加も多少はあったでしょうが、困難のなかでよくこれだけの学校をつくったものです。日本全国の村民たちの教育に対するなみなみならぬ努力と教育熱心な国民性によってなされたというべきでしょう。

 

なお、少子高齢化時代を迎えた昨今、全国公立私立小学校の合計は19,738校です。(「文科省令和元年統計要覧」)

 

そして、明治5年(1872)学制発布の年、10月14日、新橋駅の式典後、明治天皇と国内外の建設関係者を乗せた「お召し列車」が横浜まで往復運転しました。

主な乗客は、海外からは、英、米、仏、伊、露、スペイン、オーストリア、琉球王朝等の各国大使・維新慶賀使節等;明治政府側からは、明治天皇(国家元首)、有栖川宮親王(皇族)、三条実美(太政大臣)、西郷隆盛(参議)、大隈重信(参議)、板垣退助(参議)、勝海舟(海軍)、山縣有朋(陸軍)渋沢栄一(大蔵省)等が乗車していました。

 この時、西郷と大隈の間には無言の反目があり、両者は一言の挨拶すら交わさずじまいだったとのことです。前年まで、新政府の重鎮たち岩倉具視などの使節団たちが海外公務で留守となった間、新政府を守るべき役目の両者でしたが、幕末から維新への動乱期、大隈は「文明開化・脱亜入欧」の思想に傾き、後に早稲田大学創立者となり、一方西郷は外様大名の下級武士出身から「尊王攘夷、王政復古、公武合体」等の思想を経て、最後の武士魂として、後に西南戦争を起こし、没しています。

 

 150年前も、次々と変化する世相の中で、多くの人々は日々を精一杯暮らして行ったのだろうと思いを馳せます。

 

今回はここまでとして、次回も、また少し「日吉の歴史」などを探求して行こうと思っております。

                  スマイル日吉 大島

 

参考文献;「日吉誌考」佐相政男編

                  「港北区史」港北区郷土史編纂刊行委員会

                  「わがまち 港北」著者 平井誠二 林宏美


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